開けてびっくり!うそ、信じらんない!

つぶや記

新しい場所に足を踏み入れるときは

いつでもオドオドしちゃう…。

それはもう異文化で、頭で到底処理できない。

処理できないから最初っから身構えることもできない。

身構えていても、てんで的はずれな準備であったことに気付かされたりもする。

これまで常識と信じて来たものは一体なんだったのかと、情けなくなる。

それでも「ここは望んだ場所なのだ」と半ば強引に言い聞かせる。

自分でハードモードにした現実

出だしを間違えたのか。

気がつけばその日に焼き印を押されていた。

「こいつは軽蔑の対象」

あっ、もう何も覆らねえや。

14歳のようにもどかしい気持ちになる。

しっくり馴染むものはいつも妄想ばかり

それもなんか悔しいものがある。

そろそろ妄想のようなモノホンが現れてもいいんじゃないのか?

「シュレディンガーの猫」のよう

箱を開けるまでは、世界的権威、スターでもあり、また凡人でもあり、悪いやつでもある。

それは不確定性原理のように、全てが重なり合っている。

そんなわけあるかいと誰かの例え話の中で犠牲になったのがシュレディンガーの「猫」。

果たして箱の中の猫は生きているのか?

ムーニーマンのようなものでもある

開けてみるまで分からないものは、何も人生の箱ばかりではない。

ムーニーマンも同じだ。

開けてみるまでうんこかおしっこか、おならか何もちびっていないのか、誰にも分からない。

それら全ての事象が重なり合っている。

そう、いつだって人生の箱はムーニーマンのようなものでもある。

パンパースでも良い

パンパースでも良いがそれは割愛する。

それなら開けてびっくりし続けよう

箱でもいい、オムツでも、便座でも、ロールキャベツでも、スボンのチャックでも。

何かあのときとか今とかの妄想に近付くかもしれない。

楽観も悲観もしないで、機械的でもいい。

そうじゃなけりゃきっとつまらない。

実は信じられないようなびっくりが欲しかったのかもしれない。

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