うんこで笑える大人になりたいので、何でうんこが笑えるのかを考えてみた。

つぶや記

はじめに

うんことは生物においての新陳代謝の産物であり、私たち人間にとっても食事を嗜む以上は必ずうんこするので、私生活から切っても切れない関係です。

糞(くそ)の文字通り、米(食物)が異なるのが「うんこ」であり、それはうんこをうんこたらしめる所以です。

お子様のいる家庭ではお馴染みの光景であるのが、うんこで嬉々とする子供たちと、その態度に辟易する大人たちです。

いたって健全な親子の姿ですが、子供は「小さな哲学者」でもありますから、カレーやお味噌、またマヨネーズの最後のブリブリ音をそれと重ねては想いを遥かトイレに馳せます。

私はどちらかと言えばうんこで笑える大人でありたいサイドの人間なので、場をわきまえないうんこ発言には毅然とした態度で望むこととしますが、それ以外はウェルカム姿勢を一貫する所存でございます。

ただ、うんこという与えに与えられた出オチにも近い題材でただ笑っているだけではエンドユーザー感があり、格好が悪いと感じたため、何故うんこの話がこんなに面白いのかを自分なりに考えることにしました。

最近では「うんこドリル」や「うんこミュージアム」など、うんこに非ずな配色で解像度を粗くすることで、よりうんこをつややかでポップで可愛らしく表現し、大衆に広げようとする動きもあります。

それは大変素晴らしいことだとは思いますが、本来はぼそぼそとしたどうにも小汚いものなので、本記事ではその辺りのうんこにスポットを当てた内容としたいです。

すでに手遅れかもしれませんが、お食事中の方やこの手の話を好まないクレバーな方はブラウザの「戻る」ボタンを押してくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

うんこで笑える大人

世間知らずだった少年時代から、社会の仕組みを何となく理解して分をわきまえた現在に至るまでに、どこか冷めてしまい昔ほどの大きな感動大きな喜びを感じられなくなりましたが、一つだけ不変の事実があります。

それが大人も子供もうんこを題材に笑うということです。

①食べ物にしても「茶色いものが美味しい。」だなんて言われるし、無意識に茶色いものを良しとする感性が刷り込まれているのか。

いやいや、これは確証に乏しく都市伝説のような問題に発展しそうなので、ここでは否定しておきます。

そもそも人はマヨネーズやホイップクリーム、麺つゆに落としたチューブのもみじおろしでさえ、別に茶色くないのに情報を補い、やれ「うんこのようだ。」と言ったりするので、きっと色は問題ではないのです。

②まさに屁の轟音とともに便器に捻り出されたうんこはどうにも情けなくみっともなく、そして薄汚れていて醜いので、笑って愛する以外の昇華方法が見当たらないためか。

私はこの説が濃厚であると考えます。

人間は恥じらいながらうんこする生き物だからこそ、その時の惨めさや目も当てられない自分のどうしようもない姿をどうにか何かに変換しようと笑うのではないでしょうか。

この感性はうんこするものにのみ与えられたもので、例えAIでも生成することはできないものだと考えます。

AIに仕事を取られると悲観するにはまだ早く、人間にしかできないものは人間が存分に生成できます。

最後に

一生懸命に取り組んだ仕事はうんこに似ています。

例えそれが情けない気持ち、どうにも格好わるい気持ちであったとしても、全てを情熱に換えて生み出されます。

仕事とは元来そんな産物であり、自分の仕事がそうであることを強く望みます。

ありがとうございました。

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